鬼萩茶碗割高台 W16.0cm D13.2cm H10.6cm
鬼萩茶碗割高台 W16.0cm D13.2cm H10.6cm
十一代 三輪休雪(壽雪)Juichidai MiwaKyusetsu(Jusetsu)
三輪壽雪(本名節夫)は1910年、毛利家の御用であった三輪窯の9代当主三輪休雪(雪堂)の三男として生を受けます。旧制萩中学校を卒業すると、15歳上の次兄・10代三輪休雪(休和、本名邦廣)に萩焼の技法について手ほどきを受け、やがて兄を助けて家業に励むようになりました。
実直で真面目な性格だった壽雪は、過去の名碗の写しに励むことを良しとする萩焼の伝統的な作陶姿勢を踏襲しながらも、自身の芸術的感性に従いたいという欲求を捨て去ることができませんでした。その悩みを取り払ったのは1941年、「からひね会」創立者であり、兄の盟友でもあった川喜田半泥子との出会いでした。作陶にも近代的自我を求める半泥子の創作性に触れ、萩焼とは違う茶陶制作を学ぶことで、萩焼伝統の素材や特性の良さを真に理解し、その中に自らの内面を表現することを志向するようになります。
当時の萩焼は明治維新によって藩の庇護を失い、瀕死の状態にありました。そんな萩焼を甦らそうと、10代休雪と壽雪の兄弟は一つの技術の研究を進めていました。ヒントとなったのは、とある古萩の表面に残っていた白の雫。萩焼の技法を用いて、美しく濁りのない白を出すことを思いついたのです。やがて三輪兄弟独自の藁灰釉「休雪白」を腐心の末に生み出すと、すぐに大きな評判を呼び、萩焼のイメージにそれまでのびわ色だけでなく、魅力的な白を加えることに成功しました。伝統工芸である萩焼は、この時二人の三輪休雪によって、新たな息吹を注ぎ込まれたのです。
壽雪は1955年になると陶号を「休」とし、作家活動を開始します。1957年には日本伝統工芸展に初出品して入選を果たし、その後も次々と独自性溢れる作品を発表し続けました。土や釉薬に強いこだわりを見せる職人的な気質を持ちながら、機能性よりも造形性に重きを置いたユニークな作風は、絶賛を持って迎えられます。1967年、兄の隠居後に三輪窯を受け継ぎ、11代休雪を襲名。83年には重要無形文化財「萩焼」保持者に認定されたことで、陶芸史上初の兄弟での人間国宝となり、大きな話題を攫いました。
その後も探究を続け、75歳の時には粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を、豪快な器形に組み合わせて自らの技法へと昇華させるなど、萩焼400年の伝統を受け継ぎつつもその個性を器に刻みつけることで、新たな価値を創造していきました。