皿 W23.0cm D23.0cm H5.5cm 加守田昌子 極箱
皿 W23.0cm D23.0cm H5.5cm 加守田昌子 極箱
加守田 章二Kamoda Syouji
加守田章二は、大阪府岸和田市に加守田貞臣と八重子の長男として生まれました。京都市立美術大学に進み、人間国宝・富本憲吉に師事します。陶芸の本質を創作に置き、近代性・デザイン性の重要さを説く富本の教えを加守田は終生守り続け、その言葉「模様から模様を造る可からず」を自らの創作の規範としていました。
卒業後は茨城県日立製作所関連の製陶所などに勤務の後、1959年、26歳で栃木県益子に窯を借りて独立し、本格的な創作活動を開始しました。こののち、1970年に岩手県遠野に居を移すまでを「益子時代」、それ以降から晩年までを「遠野時代」と呼ぶことが一般的です。
益子時代の加守田は、始めは実用的な日用雑器を中心に作っていましたが、やがて古代の須恵器(日本最大の産地は彼の地元大阪)に興味を惹きつけられ、自然釉や灰釉の研究を進めていくようになります。その技法を用いて作られた彼の作品群は、益子の中で評価を受けることは暫くの間ありませんでしたが、やがて造形に意匠に否応なく現れる独創性や、研究に基づいた技法の確かさが大きな評判を呼び、数々の賞を獲得します。東京での個展も大成功を収め、陶芸家として確固たる地位を築くに至りました。
徐々に騒がしくなる周囲の喧騒を避けるかのように、加守田はかねてからの念願であった遠野への移転を決行します。遠野時代の作品は、およそ半年ごとに東京で発表され、いずれもが高い評価を受けますが、真に驚嘆すべきは、発表するごとにその作風が全く変わっていることでした。惰性を嫌い、常に創作の鮮度を追求する姿勢は、当時も驚きをもって迎えられ、それまで陶芸に興味を持つことのなかった多くの人々を巻き込むことにも繋がりました。個展には長蛇の列が生まれ、開店と同時に全品売約済となるほどでした。陶芸に対する社会的・芸術的認識は、加守田の活躍により劇的に変化したと言えるでしょう。
「私は陶器は大変好きです しかし私の仕事は陶器の本道から完全にはずれています
私の仕事は陶器を作るのではなく陶器を利用しているのです
私の作品は外見は陶器の形をしていますが中身は別のものです
これが私の仕事の方向であり 又私の陶芸個人作家観です」 (1971年 個展)
創造と近代性を自らに課した加守田は、決してオブジェを作ることはしませんでした。陶器を利用していると断言する彼は、言うなれば陶器の中身として以外に、自らを表現する術を知らなかった芸術家なのかもしれません。そして彼の器に満たされるべき物について思いを馳せる度、私たちは彼の深淵に少しだけ触れることができるのです。