青磁紅彩香爐 W14.8cm D8.2cm H9.8cm 河井敏誉 極箱
青磁紅彩香爐 W14.8cm D8.2cm H9.8cm 河井敏誉 極箱
河井 寛次郎Kawai Kanjiro
河井寛次郎は1890年、島根県安来の大工である河合大三郎・ユキの次男として生まれました。4歳の時にユキと死別、以降は継母カタに育てられます。中学二年の時、叔父の助言で陶器の道に進むことを決意しました。中学学校長の推薦により、無試験で東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学。在学中、生涯の盟友となる2級下の濱田庄司と出会います。
卒業後は京都市陶磁器試験場を経て、五代清水六兵衛の顧問となります。この頃には濱田と共に研究や古陶の模倣を行い、また二人で沖縄や九州の諸窯や朝鮮半島・満州を巡り見聞を広めるなど、精力的な活動を続けました。1920年、京都五条坂鐘鋳町にある六兵衛の持窯の一つを譲り受け、住居・工房も同所に築きます。鐘渓窯と名付けられたこの窯で、寛次郎は生涯制作を続けていくことになります。
1921年に東京・大阪の高島屋で行われた初の個展では、研究に裏付けされた超絶技法と、中国・朝鮮の古陶への斬新な解釈によって生み出された華麗な作品群が絶賛をもって迎えられます。しかし柳宗悦主催の朝鮮民族美術展を見た寛次郎は、李朝時代の無名の職人の陶の、自由で作為のない姿に衝撃を受けました。技巧を駆使し、孤高の頂きへと昇ろうとする己の陶の形を恥じ、美しい実用陶を作ることを志すようになります。
1926年、柳、濱田とともに、日本民芸美術館設立趣意書を発表。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらと「民芸運動」に深く関わりを持ちます。その間納得のいく作品が生まれるまで発表を休止していた寛次郎でしたが、1929年、東京高島屋での個展を5年ぶりに再開。出品作はすべて実用の器であり、技法も民窯風の素朴なものを採り入れました。過去の華やかな作風と決別したこれらの作品は賛否両論を巻き起こしましたが、寛次郎の陶芸はこの後も「民藝」の表現を追求し続けていきます。
戦後は世界の民族造形に傾倒し、実用・民藝に必ずしも捉われない、主観的で独創の際立つ、奔放な作品を多く手掛けるようになります。その方法も作陶のほか、木彫、デザイン、書、随筆、詩作など、実に多彩です。後年、文化勲章や人間国宝などの話にも興味を示さず、生涯を無位無官の陶工として晩年まで製作を続けました。一方、高島屋宣伝部川勝堅一の計らいにより国際展への出品は続けられ、晩年にミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリ受賞を果たすなど、国際的にも大きな尊敬をもって扱われる芸術家でした。