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さけのみ W5.8cm D5.8cm H4.2cm

北大路 魯山人(房次郎)Kitaoji Rosanjin (Fusajiro)

陶歴

1883年
上賀茂神社の社家・北大路清操と登女の次男として、京都府京都市北に生まれる。
生後すぐに養子に出され親戚の間を転々とする。
1889年
木版師である福田武造、フサ夫妻の養子となり福田房次郎となる。
1893年
上京区の梅屋尋常小学校を卒業後、丁稚奉公に出される。
奉公先で竹内栖鳳の絵入りの看板を見かけ、絵師を志す。
1896年
奉公を辞め、養父の木版の手伝いを始める。
西洋看板描きとして活躍する。
1904年
日本美術展覧会に「隷書千字文」出品、一等賞受賞。
1905年
町書家・岡本可亭(岡本太郎の祖父)師事。帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向する。
1907年
可亭の問を辞し、中橋和泉町に移転、書道教授として独立。
1919年
中村竹四郎と共に、京橋にて古美術骨董を商う『大雅堂美術展』開業。
1921年
大雅堂で会員制美食倶楽部を発足。
1925年
東京・永田町にて「星岡茶寮」設立。
1926年
北鎌倉に築窯。
1927年
宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招く。『魯山人窯芸研究所・星岡窯』設立。
1928年
個展『星岡窯魯山人陶磁器展』(日本橋三越)
1946年
自作の直売店『火土火土美房(かどかどびぼう)』銀座に開店。
窯場を『魯山人雅陶研究所』と改称。
1951年
『現代日本陶芸展』(パリ チェルヌスキー美術館)
1954年
ロックフェラー財団の招きで欧米各地にて展覧会、講演会を開催。
個展『魯山人作品展』(N.Y 近代美術館)
1955年
織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。
1959年
ジストマによる肝硬変により逝去。(享年76歳)

略歴

北大路魯山人(本名房治郎)は、1883年、京都の上賀茂神社の社家に生まれました。母の不貞の子であったことから父は魯山人の産前に自死を遂げており、母も産後すぐに行方をくらましてしまいます。幼少の頃は親戚の家をたらい回しにされ、虐待を受けることもあったと言います。悲惨な境遇からの脱却を自力で成し遂げようと、6歳にして煮炊を覚えるなど、自活の道を模索していきました。13歳の時に竹内栖鳳の作品に感化を受けて日本画家を目指すも学校には通えず、仕方なく自力で画材を購入する資金を獲得するため書の懸賞に応募したところ、次々に受賞を重ねて一躍書の名手として名を売りました。その後も刻字看板や篆刻など、才を生かした仕事が方々の名士の間で評判となります。

恵まれた素養を活かして自活を果たした彼が、口を糊する手段として芸術を選んだわけには、幼い頃の美しい思い出のひとつが強く影響しています。3歳の時に当時の養母に手を引かれ上賀茂神社の裏山へ行くと、群れ咲いたヤマツツジが一面を染め上げていました。彼はこの光景と、この時に感じた「美のために生きよう」という決意を、生涯忘れることはありませんでした。魯山人の「自然礼賛」の原点です。

1915年、魯山人は金沢の地で一つの出会いを果たします。実業家であり漢学者、茶人でもあった細野燕台。彼の元で下宿をする中で、料理と陶芸の指南を受けました。この地で美食家としても名を上げた魯山人は、1917年頃には古美術店「大雅堂」を便利堂の中村竹四郎と共同経営。常連客に向けて高級食材を使った料理を古典の名器に乗せて提供するようになります。1921年に会員制食堂「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器も手がけるようになり、この頃から20万点とも言われる、魯山人の膨大な陶芸作品が生み出され始めます。

魯山人は「器は料理の着物」という言葉を遺しています。一般的に陶工が土や釉薬に細心の注意を払い、焼き上がりをゴールとして目指すことに対して、魯山人は初めから料理との調和を目指して作陶した物が非常に多いと言われます。彼にとって作陶も料理もそれ単体では目的になり得ず、然るべき器に然るべき料理が乗ることが、彼の総合芸術としてのあるべき姿でした。蒐集家のみならず、日本料理の職人に彼の愛好家が非常に多いことも頷けます。そして彼の芸術は、当時東京における最高の料亭との称号を恣にした「星岡茶寮」にて花開き、その名を後世に残すこととなるのです。