耀彩花器 W23.9cm D23.9cm H30.9cm 口径10.6cm
耀彩花器 W23.9cm D23.9cm H30.9cm 口径10.6cm
三代 徳田 八十吉(正彦)Sandaime Tokuda Yasokichi (Masahiko)
三代目徳田八十吉(本名正彦)は、1933年、二代目徳田八十吉の長男として石川県能美群小松に生を受けました。幼少より祖父・初代八十吉と同居、九谷焼の名品に囲まれ、作品たちの逸話を聞かされて育ったと後に語っています。20歳の時に工房に入り、二人の八十吉に師事。古九谷研究の権威であった初代からは古九谷風の色彩や表現方法を伝授され、近代陶芸の父と言われる富本憲吉に薫陶を受けた二代目からは近代性と創造性を強く受け継ぎました。
二人の偉大な先人と比較される運命に悩みつつも修行を続ける最中、1956年、正彦22歳の時に、初代が亡くなります。その際に、祖父はそれまで息子ら弟子たちにも打ち明けなかった幾つかの釉薬の秘伝と、研究のすべてが特殊な符丁で書かれた黒い手帳を正彦に授けたのです。彼は符丁を解読し、遂には100色以上あった初代の秘法をすべて解き明かしました。祖父の人生を賭した研究を自らの道で推し進めるため、正彦は創作に全てを賭けて打ち込むことを決意します。
正彦は初代の調合から、意図的に少しずつ分量を変えた多数の色釉を作り、それぞれの色と色との間にどれだけの変化があるかを調べていきました。やがて70以上の識別可能な色と、それらを並べて塗ったものを祖父の時代では出すことが叶わなかった高温で焼成した時、美しいグラデーションが生まれることを発見しました。祖父の研究と、技術の進歩とが自分を介して出逢い、新しい技術が誕生する。世界でただ一人、その奇跡を目の当たりにすることになった正彦の感動はどれほどのものだったでしょうか。三代目徳田八十吉の代名詞である「耀彩」の技法は、こうして誕生したのです。
正彦は西洋画に造詣が深く、その技法も耀彩をはじめとして抽象画を手本とした物が多かったため、伝統的な九谷焼の愛好者たちからは批判も多く受けたと言います。しかし色絵に秀でた窯に生まれた以上、色彩の新しい表現を追求することが先代達の道を先に進める唯一の道であると思っていた正彦は、耀彩を用いた作品を作り続けました。やがて耀彩は九谷焼の新しい技法として受け入れられ、その作品たちは全世界で賞賛の声をもって迎え入れられることとなります。
1982年、正彦は三代徳田八十吉を襲名。そして2009年、彩釉磁器にて「重要無形文化財(人間国宝)」に認定されます。伝統を受け継ぎながら、伝統に寄り添って物を作ることを是とせず、自らの世界をその先に作り出す。凛としたその姿勢は、彼が遺した美しい作品たちとよく似ています。