蓬莱掛分扁壺 春夏秋冬 W26.7cm D23.2cm H26.4cm 口径15.4cm 内径11.3cm
蓬莱掛分扁壺 春夏秋冬 W26.7cm D23.2cm H26.4cm 口径15.4cm 内径11.3cm
清水 卯一Shimizu Uichi
清水卯一は1926年、京都五条坂に京焼陶磁器卸問屋の清水卯之助・モトの長男として生まれました。問屋の息子でありながら轆轤に強い興味を持ち、11歳で父と死別した後に入学した立命館商業学校を2年余りで中退。のちに鉄釉陶器の人間国宝となる石黒宗麿に師事することとなりますが、戦争末期の社会情勢により数ヶ月で師の元へ通うことを断念します。しかし東洋陶磁器に傾倒し、釉薬生成のために自らの足で素材を集める宗麿と過ごした日々は、以降の卯一の作陶における姿勢に多大な影響を齎しました。
自宅に轆轤場を作り活動を始めた卯一は、伏見の国立陶磁器試験場に伝習生として入所します。43年には京都市立工業試験場窯業部の助手として働きますが、終戦を機に辞職し、自宅での作陶を続けます。古い家を大切にする京都において、新参者の卯一は二世・三世の作家たちに囲まれて肩身の狭い思いも味わいました。しかし1947年に、卯一は同じような境遇に置かれていた新進の作家たちとともに「四耕会」という前衛陶芸家集団に参加し、終戦後の陶芸に新たな価値を生むべくますます作陶活動に勤しみます。
1951年には第7回日展に初入選、以来1955年の第11回展まで出品を続けます。同年、第2回日本伝統工芸展に、師・石黒の推薦を受けて出品。この頃に柿釉、油滴などを用いた作品で、個性的な作風を確立。還元炎焼成が一般的であった鉄釉に於いて、酸化炎での焼成に成功します。鉄釉は酸化鉄の含有量により黄色や黒、茶、赤褐色などへ発色が変化するため、微妙な色合いの表現が可能となりました。その成果を取り入れた作品は国内外で評判を呼びます。57年に日本工芸会正会員となり、翌年の第5回展の奨励賞、第7回展での日本工芸会総裁賞などを次々と受賞。海外展においても59年のブリュッセル万国博覧会でグランプリを獲るなど、陶芸史にその名を刻む活躍を続けます。
1970年には滋賀県志賀町の蓬莱山麓へ開窯。またガス窯も設けて蓬莱窯と名付け、この地に移り住みました。この移転が転機となり、新しい釉薬の探求や、自分で材料を作るなどの挑戦を自らに課していきます。73年の第20回日本伝統工芸展では、蓬莱の地土を使った「青瓷大鉢」の評価と、これまでの貢献によって20周年記念特別賞を受賞。85年には宗麿に続いて二人目となる「鉄釉技法」での重要無形文化財保持者に認定されました。晩年にあってもその探究心と創作性は失われることはなく、また後進にも蓬莱窯を解放し、一介の職人として一つ一つの仕事の積み重ねを大切にする姿勢を示すことで、次代へその意志を伝えることに最期まで尽力しました。