紫深厚釉 香炉 W10.0cm D10.0cm H10.4cm
紫深厚釉 香炉 W10.0cm D10.0cm H10.4cm
初代 徳田 八十吉Syodai Tokuda Yasokichi
初代徳田八十吉は、1873年に石川県能美群小松に生まれました。学業優秀で絵が上手であった八十吉は、染色業に従事していた教育熱心な父・亀屋伊助に支えられ、小学校の高等科を一等で卒業しました。卒業後は赤絵の生産工場で絵付をしながら、夜は狩野派の絵師の元で絵の修行に励んでいました。
この頃九谷焼は明治政府の打ち出した輸出振興策に参加しており、日本における輸出陶磁器の第一位となる程に隆盛していました。しかしそこでは貿易商人主導の質の悪い品が数多く流通しており、仕上がりは伝統的な九谷焼にはとても及びませんでした。輸出ありきの絵付方法に反発し、古来より伝わる九谷絵付の復興を志したのは、小松の陶工・松本佐平でした。佐平は伝統的な青九谷風の絵の具による絵付を復活させ、業界に一石を投じます。
17歳になった八十吉は佐平に弟子入りをし、彼の下で九谷絵付を習得しました。ここで古九谷や吉田屋の青手作品に出会い、その魅力の虜となった八十吉は、当時既に失われてしまっていた古九谷の技法を蘇らせるため、その人生を捧げることを決意します。やがて陶画工として資格を得、20歳で独立を果たします。
絵付師となった八十吉は古九谷の再現を目指し、色釉の調合技法について徐々にその秘密を解き明かしていきます(余談ですが、彼が晩年まで持ち歩き三代目に伝えた「黒い手帳」には、自ら発見し現世へ蘇らせた釉薬の調合方法が難解な暗号で記入されていたと言われ、生涯を賭した一大研究への執着が伺えます)。研究の成果の一つ「深厚釉」を用いて石川県美術工芸品展覧会に出品した「葡萄模様花瓶」は一等賞を獲得。上絵付の第一人者としての名声を得た八十吉は、古九谷・吉田屋の収集家の元を訪れ、多くの名品の絵柄を写しました。各地を巡り、先人たちの図案や色調を模写していく中で、やがてその経験が彼の日本画的素養と結びつきます。彼の絵付も単に模様を写し取ることには留まらず、自らの内面を作品に刻みつけるための表現へと昇華されていきました。
初代八十吉の特徴の一つに銘があります。彼は職人の世界において、作品に自らの銘を入れた先駆者でした。彼の行った古九谷の模写があまりに見事で、本物と間違えられて市場に出回ってしまったことから、区別するために入れるようになったと言われています。しかし彼の前を走っていた先人たちは皆無銘であったために、後世に名を残すことなく九谷焼の歴史に飲まれていきました。その連鎖を自分が断ち切ったということは、終生八十吉の矜持となっていたそうです。