備前酒呑 W6.3cm D6.3cm H5.4cm
備前酒呑 W6.3cm D6.3cm H5.4cm
山本 陶秀(政雄)Yamamoto Tousyu(Masao)
山本陶秀(本名政雄)は1906年岡山県和気郡伊部町伊部の農家、山本源次郎、君の次男として生まれました。小学校を卒業した15歳の時に、伊部で最大の窯元「黄薇堂」にて見習いとして働き始めます。ここではただひたすらに、ろくろを回して湯呑を作っていたと言います。17歳の時には同じく伊部の「桃渓堂」に移り、茶陶や細工物作制の技術を学び、本格的な作陶を開始します。27歳で独立する頃には「ろくろの名人」と呼ばれるほどに練達していました。
1933年、伊部に開窯して独立を果たします。自らの道を歩み始めた陶秀は、茶人達に求められる茶陶作りを目指し、高橋箒庵によって編纂された「大正名器鑑」を購入しました。当時の著名な茶道具(茶碗と茶入)を写真入りで紹介した大カタログで、全9編13冊。1919年から7年に渡って刊行された、いわば最先端の教材でしたが、当時は車と同じほどの価格だったそうです。価格も分量も膨大なこの書物を読み込み、名器の数々を研究していきました。また、この頃に京都の陶芸家・楠部弥弌の元で、釉薬についても学びました。備前の伝統を継承するだけでは収まらない、陶秀の静かな野心がうかがい知れます。
陶秀が目指すのは、桃山備前と呼ばれる安土桃山時代の備前焼。又の名を古備前と言い、備前の最高峰とされています。その道には、のちに共に備前焼三人衆と呼ばれることとなる金重陶陽と藤原啓がおりました。陶秀は金重の華麗さ、藤原の豪胆さにも影響を受けつつも、自らの道を見定めます。歴代最高とも言われるろくろ技術によって、端整且つ清楚に整えられた作風を、野趣あふれる古備前の様式と併せた時に、自分だけの作陶が完成することを陶秀は理解していました。そしてそのことは彼の茶陶の発表とともに証明され続け、国の内外問わず高い評価を獲得していきます。いつとはなく「茶陶の陶秀」と言われるようになりました。
彼の代表作の一つである「茶入」は、作制にあたって非常に高度な技巧が求められ、天性の手先の器用さが無ければ極めることは不可能とされており、だからこそ第一級のろくろ技術を備えた陶秀ならではの特徴が、よく現れている作品と言えます。彼は自著に「(茶入は)私のすべてであったように思います」と残しており、その思い入れの強さを認めています。1987年、「茶陶の陶秀」の高い技術と、備前焼への貢献が認められ、人間国宝に認定されました。陶秀80歳の時のことでした。