銀彩斜筒瓶 W13.8cm D16.0cm H35.2cm
銀彩斜筒瓶 W13.8cm D16.0cm H35.2cm
柳原 睦夫Yanagihara Mutsuo
柳原睦夫は1934年、高知市の医者の息子として生まれました。美術を志すも、高校を卒業後は図案科(デザイン科)に進むことを考えていたそうです。ところが京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)の学長に、富本憲吉が教授を務める工芸科陶磁器専攻で学びながら、彼の人格に触れることを強く勧められたことにより、陶芸の道に入りました。なお、この時既に入試受付は締め切られており、翌年願書を出し入学となりました。
「模様から模様をつくらず」の信念を持ち、写生を元とした独創性の大切さを説く陶芸界の巨人・富本に師事したことは、作風を越えて柳原の生き方に大きく影響を与えました。また同校では近藤悠三、藤本能道らの指導も受け、陶芸家としての下地はここで大きく形作られたといえるでしょう。
1960年に専攻科を修了。非常勤講師として学校に残ったのち、1966年にワシントン大学に講師とし招聘され、渡米。1967年には同大学の付属美術館を始め、オレゴン、サンフランシスコ等で多くの個展を開催し、好評を博しました。同年帰国し、大阪芸術大学陶芸科助教授に就任、その後も国内外で幅広く教鞭を執ります。
アメリカでの暮らしは現代美術の動向や日米の陶芸を見つめ直す機会になり、自分の求める技術表現を突き詰めることに繋がりました。特に形と装飾の相関性と、生み出される陶内部の空間が持つ意味について、自覚的に追求を推し進めるようになります。前者はポップアートから学んだ極彩色を用いる奔放な発想や日本の陶磁器文化研究を織り交ぜた独自の技法へ、後者は「うつわ」としてのあるべき姿への執着へと昇華していきます。
こうして生み出された作品は、伝統的な陶の美意識である「端正で高雅」とはまた別の価値観を作り出そうと試みられており、師である富本の目指したところとは一見対極に位置するように思えます。しかし既存の模様を採らず、金銀彩や鮮明な多色文を使用する事は、富本の「模様から模様をつくらず」の精神に適っているとも言えるのです。
柳原の作品は、常に何かを変えようとするエネルギーに満ちています。ユーモアに溢れる作品や、時には鋭利な批評性を帯びる物もありますが、総じてその目的は「作ること」そのものにあると言っていいでしょう。自分の求める姿形を生み出すための変革精神が、齢80を超えた現役作家の創造の源泉なのです。