伊部窯変耳付花入 W16.0cm D11.9cm H27.5cm
伊部窯変耳付花入 W16.0cm D11.9cm H27.5cm
金重 素山(七郎左衛門)Kaneshige Sozan
(Shichirouzaemon)
金重素山(七郎左衛門)は1909年、備前の窯元六姓の一つ金重家の当主・金重楳陽の三男として生まれました。楳陽は凋落の直中にあった備前焼において、細工物の一人者としてその伝統を繋ぐ存在でした。しかし七郎左衛門7歳の時に死去し、それからは13歳年上の兄・金重陶陽が父親替わりとなります。
父の指導を受け、若くして細工物の名手として名を売った陶陽により、素山もまた作陶の技術を学んでゆきます。陶陽の教育方針は、指導をそこそこに窯入、窯焚などの技術習得であっても実際に体験をさせる中で体に覚えこませてゆく厳しいものでした。やがてこれらの技法に於いては天才の誉れ高い兄が全幅の信頼を寄せるまでに至り、陶陽が行った備前焼再興の大事業に於いて欠かせない一人となります。
1951年、金重家が元々信仰してきた宗教団体「大本」三代教主・出口直日の招請によって京都亀岡の大本本部に出向いたところ、直日に直接作陶を指導するよう依頼を受け、これを受諾しました。境内には本格的な作陶場が築かれ、芸術に重きを置く大元の窯として、著名な陶工を始めとする文化人たちが日本各地から集まってくるようになりました。素山もまた一人の陶工として、ここで研鑽の日々を送り、50を過ぎる頃から自らの作品を世に送り出すようになります。
1964年には13年過ごした京都を出て、岡山へ帰郷。本格的な作陶活動に励みます。素山が熱中したのは茶陶づくり、その中でもとりわけ桃山時代の備前焼「緋襷」と言われる模様の再現でした。兄・陶陽が自分の為に唯一残してくれた仕事であるとして、果てしない試行錯誤を重ねていく中、古式の薪窯ではなく、最新式の電気窯を使った焼成を用いて、質を落とすことなく鮮やかな緋襷模様を生み出すことに成功しました。
1967年、東京日本橋壺中居にて「緋襷」のみの個展を開催します。1970年、1972年には東京日本橋三越で個展を開催し、好評を博します。1974年に山陽新聞文化賞を受賞するなど、名実ともに備前焼界の巨匠となっていく素山ですが、一貫して守り続けたものは、火・水・土の恩恵を享受することや、伝統を紡いでいく一端を担わせてもらえていることへの深い感謝の気持ちを持ち続けることでした。その生真面目な性格が、多くの茶人たちを魅きつける、端正で品格のある茶陶づくりに繋がっているのです。