練上嘯裂香爐 外径 W11.2cm D11.2cm 内径 W8.9cm D8.9cm H(陶器7.2cm 火舎含む10.2cm)
練上嘯裂香爐 外径 W11.2cm D11.2cm 内径 W8.9cm D8.9cm H(陶器7.2cm 火舎含む10.2cm)
松井 康成(宮城 美明)Matsui Kousei(Miyagi Mimei)
松井康成、本名宮城美明(みめい)の父である宮城興四郎は、長野県北佐久郡の製糸工場に勤めていましたが、昭和恐慌の煽りを受けて川崎市に染工場を開業。美明は神奈川県立平塚工業学校に入学しましたが、川崎の自宅が戦災により焼失。父の生家である茨城県笠間町に家族は疎開移住をし、同校を卒業した美明も終戦後にこの地へ移り住みます。この頃笠間にある浄土宗月宗寺下の奥田製陶所にて、轆轤の技術を学んでいます。
上京し明治大学専門部文科文芸科に入学した美明は、小説家を志すと同時に、浄土宗律師養成講座を大正大学にて受講し、仏門への道を歩み始めます。一方で東京国立博物館に通い、中国・日本・朝鮮の古陶磁研究を始めたのもこの頃でした。1952年、卒業後に月宗寺の住職松井英巧の長女秀子と結婚し、松井姓を名乗るようになります。翌年英巧が病に伏すと月宗寺に入り、1955年には住職となりました。美明30歳の時でした。
境内には江戸時代に築かれた窯があり、1960年にこれを復興。古陶磁研究に基づく倣古作品を作り始めます。この時期、後に代名詞となる練上技法の研究にも取り掛かります。私生活では息子が生まれ「康成」と名付けますが、美明がある時この名を用いて作品を発表し入選したことから、以降「松井康成」の名を自ら用いるようになりました。
練上とは色や濃淡の異なる粘土を合わせ、伸縮で模様を表す技法です。粘土の収縮率の違いなどからひび割れが起きやすく、高い技巧が必要とされます。1966年、のちの人間国宝田村耕一に師事した際に練上の才を指摘され、この道を極めることを決意。以降、練上を表現技法の主とした最初の作家として名を高めていくことになります。
康成は坏土を同一の物とし、少量でも発色の良い呈色剤との組み合わせにより色の違いを生む「同根異色」の技法を編み出します。また、練上では不可能と言われていた轆轤成形にも成功。円筒に粘土を巻きつけ紋様を整えた上で円筒を抜き取り、轆轤の遠心力を利用して内側から手を加えることで生じる複雑な文様は「嘯(しょう)裂紋」と呼ばれ、これらを用いた作品は新しい陶磁の表現として、後進に多大な影響を与えました。
複雑な文様を自在に操る康成の作品は、土の質感を活かした朴訥な物から艶のある肌触りに色彩を楽しむような物など多岐に渡りますが、それらのどれからも深い見識と宇宙観を感じさせる辺りが、凡百の作家と一線を画すところであると言えるでしょう。