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練上嘯裂香爐 外径 W11.2cm D11.2cm 内径 W8.9cm D8.9cm H(陶器7.2cm 火舎含む10.2cm)

松井 康成(宮城 美明)Matsui Kousei(Miyagi Mimei)

陶歴

1927年
宮城与四郎の次男として、長野県北佐久郡本牧村に生まれる。
1945年
疎開先である茨城県笠間の奥田製陶所にて作陶を学ぶ。
1952年
明治大学文学部修了。
笠間の月宗寺住職の長女・松井秀子と結婚。
1953年
木村武山の弟子、海老沢東丘に日本画を師事。
1957年
浄土宗月宗寺第23世住職となる。
1960年
笠間市月宗寺の境内に築窯。中国、朝鮮、日本の古陶磁を研究。
また練上技法の研究も始める。
1968年
栃木県佐野市陶芸家田村耕一氏に師事。以降練上技法に専念するようになる。
1969年
「練上手大鉢」第9回伝統工芸新作展に初出品で奨励賞受賞。
「練上手壺」第16回日本伝統工芸展に初入選。
1971年
「練上線文鉢」18回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞受賞。
日本工芸会正会員となる。
1973年
「練上線文鉢」第2回日本陶芸展で最優秀作品賞・秩父宮賜杯受賞。
1988年
紫綬褒章受章。
1990年
日本陶磁協会賞金賞受賞。
日本工芸会常任理事就任。
1993年
重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
1999年
重要無形文化財「練上手」伝承者養成研修会の講師を勤める。
2000年
勲四等旭日小綬章受章。
2003年
急性呼吸器不全のため逝去。(享年75歳)
従五位を賜る。

略歴

松井康成、本名宮城美明(みめい)の父である宮城興四郎は、長野県北佐久郡の製糸工場に勤めていましたが、昭和恐慌の煽りを受けて川崎市に染工場を開業。美明は神奈川県立平塚工業学校に入学しましたが、川崎の自宅が戦災により焼失。父の生家である茨城県笠間町に家族は疎開移住をし、同校を卒業した美明も終戦後にこの地へ移り住みます。この頃笠間にある浄土宗月宗寺下の奥田製陶所にて、轆轤の技術を学んでいます。

上京し明治大学専門部文科文芸科に入学した美明は、小説家を志すと同時に、浄土宗律師養成講座を大正大学にて受講し、仏門への道を歩み始めます。一方で東京国立博物館に通い、中国・日本・朝鮮の古陶磁研究を始めたのもこの頃でした。1952年、卒業後に月宗寺の住職松井英巧の長女秀子と結婚し、松井姓を名乗るようになります。翌年英巧が病に伏すと月宗寺に入り、1955年には住職となりました。美明30歳の時でした。

境内には江戸時代に築かれた窯があり、1960年にこれを復興。古陶磁研究に基づく倣古作品を作り始めます。この時期、後に代名詞となる練上技法の研究にも取り掛かります。私生活では息子が生まれ「康成」と名付けますが、美明がある時この名を用いて作品を発表し入選したことから、以降「松井康成」の名を自ら用いるようになりました。

練上とは色や濃淡の異なる粘土を合わせ、伸縮で模様を表す技法です。粘土の収縮率の違いなどからひび割れが起きやすく、高い技巧が必要とされます。1966年、のちの人間国宝田村耕一に師事した際に練上の才を指摘され、この道を極めることを決意。以降、練上を表現技法の主とした最初の作家として名を高めていくことになります。

康成は坏土を同一の物とし、少量でも発色の良い呈色剤との組み合わせにより色の違いを生む「同根異色」の技法を編み出します。また、練上では不可能と言われていた轆轤成形にも成功。円筒に粘土を巻きつけ紋様を整えた上で円筒を抜き取り、轆轤の遠心力を利用して内側から手を加えることで生じる複雑な文様は「嘯(しょう)裂紋」と呼ばれ、これらを用いた作品は新しい陶磁の表現として、後進に多大な影響を与えました。

複雑な文様を自在に操る康成の作品は、土の質感を活かした朴訥な物から艶のある肌触りに色彩を楽しむような物など多岐に渡りますが、それらのどれからも深い見識と宇宙観を感じさせる辺りが、凡百の作家と一線を画すところであると言えるでしょう。