鳥盒子 W7.0cm D3.9cm H3.4cm
鳥盒子 W7.0cm D3.9cm H3.4cm
八木 一夫Yagi Kazuo
1918年、陶工八木一艸(いっそう)の長男として、京都清水五条坂に生を受けました。小学校卒業と同時に、京都市立美術工芸学校彫刻科へと入学し、様々な芸術を学びます。父は宋代に明るく、特に青磁に秀れた伝統的職人で、根底となる肉体を描くことができなければ造形において何かが始まることはないと一夫に教えました。のちに確執が生じることになる父の教えは、生涯一夫の指針となります。卒業後は商工省陶磁器試験場の伝習生となりました。
この頃に試験場の指導員であった沼田一雅に師事し、彼が結成した日本陶彫協会に入会。沼田の元で陶彫を学ぶことになり、1月には同会の第1回展に出品しています。しかしその年の5月に大阪歩兵第八聯隊に補充兵として入隊。8月に南支広東方面へ派遣されますが、9月に肺を患い、現地で入院ののち帰国。親交のあった作家・司馬遼太郎は、この時に中国にてアルミの器でご飯を食べた経験が、八木に陶芸を強く意識させたと指摘しています。
除隊後は神戸市立中宮小学校、京都の立命館第二中学校助教諭に就任。教員として過ごすも、戦後1946年に退職し、陶芸に専念することを決意。鈴木治、山田光らと陶芸グループ走泥社を結成し、八木は常にその先頭に立って新陶芸運動を推進しました。彼らは初め実用的な器の中に、海外の美術に触発された新しい感覚を加えたものを主に作っていましたが、次第に器の実用性を考慮の他に置くオブジェ作品を活動の中心に据えるようになっていきます。
八木が求めた表現とは、器の形が持つ、物を入れる・花を挿すなどといった意味や働きからも逃れ出て、純粋な自分の心そのものを立体造形に表すことでした。時には器の口をも塞ぐ、前衛陶芸の誕生です。そしてそれは、父を含めた伝統的な京焼の作家を始めとする、形骸化した技巧への批判でもありました。事実父は息子の作品を毛嫌いし、同じ窯で焼成することを拒んだと言います。カフカの小説「変身」をモチーフとした異形の作品「ザムザ氏の散歩」は世界の国際展で数々の賞を受賞し、今日では日本の陶芸史上の事件とされていますが、当時国内では多くの反発を招き、長い間見合った評価を受けることはありませんでした。
八木は前衛陶芸の第一人者でしたが、過去の陶芸作品についての造詣も非常に深く、またその作陶技術は一級品で、多くの評論家や同業者たちを唸らせるほどでした。更に古典文学や美術史などにも精通し、その破天荒な生き様も相まって、当代一流の文化人・知識人たちからも「天才」と呼ばれ愛された存在でもありました。そのうちの一人でもある司馬は、彼の天才たる所以を、誰の真似もしていない事にあるとしています。ただ自らの悲しみや孤独と真摯に向き合い、それを吐き出すことを続けてきたからこそ、彼が生み出した作品たちは、私たちの心に真に迫る力を持っているのです。